コロナウイルスの影響が仕事にも…
- 髙野
- 2020年3月11日
- 読了時間: 4分
3月に入り、コロナウイルスの影響で学校が一斉休校となりました。
この影響もあり、急遽予定していた研修休みは3日ほどに短縮を行なって目下対応をしています。
特に、昼間に時間が空いてしまっている子ども達または保護者の方々から、「午前中から授業を行なってほしい」など、急遽仕事スケジュールを変更、または追加の依頼が舞い込んでいるのが現状で、なかなかに慌ただしい毎日です。
本来、この時期は受験関係が落ち着いてくる頃ですが、今年は世の中と同様になかなか落ち着けなくなりそうです。
さて、表題ではコロナウイルスの影響は大きいと書きましたが、コロナウイルスそのものが持つ危険性よりも、これが副次的にもたらす影響の方が大きいように思えます。
それは、マスク不足やトイレットペーパーなどの紙製品類の不足をはじめとする、人間心理の不安感がもたらす混乱です。
個人的には、この人間心理の不安感がもたらす混乱の醜悪さを見るにつけ、「我々日本人は東日本大震災から何を学んできたのか」と、嘆息をしてしまっています。
それと同時に、改めて教育の果たすべき役割の大切さを痛感させられてもいます。
本来、このような混乱をもたらしているのは、先程「人間心理の不安感」と書きはしたものの、本質的には人間の中に誰しもが抱える、己を中心とする「利己性」に他なりません。
この利己性は放置をすると際限なく広がっていき、いわゆる「万人の万人に対する闘争」状態となってしまうと指摘したのがイギリスの思想家ホッブズであり、この万人の万人に対する闘争を防ぐための手段としてホッブズは「社会契約」の概念を提示しました。
他方で人間の善性を強く方向付けて「利己」を乗り越えようとする立場もあります。
ドイツの哲学者であるヤスパースが「四聖」と呼んだ、ソクラテス、イエス、釈迦、孔子といった聖人達は、概念の細かさに違いはあれど、各人共に人間存在の中に潜む利己性を乗り越えることを提唱しているといえます。
ホッブズのような、予め人間の「利己性」は避けられないものとして、社会の一つのシステムとして「利己性」を克服する方向を求めていくことの必要性は、恐らく殆ど誰しもが首肯できる点ではあるでしょう。
私も、国際政治や軍事といった分野を学んでいった際には、リアリズムの重要性を痛感すると共に、人間が持つ「利己性」は乗り越えるというよりも、社会的に押さえつける必要を感じました。
しかしながら、外部的に各人の行動を抑制することは必要であることを認めつつも、どこかでそれを内部的に各人が克服していくこともまた避けては通れません。
人間という存在が外部的に抑制され続けなければ社会が成立しないことになってしまえば、極論を言えば、SF、ファンタジーといった小説、映画、ゲーム、アニメetcで何度も語られており、最早陳腐と化してしまったような、「神」にほぼ等しい存在(近年ではAIでしょうか)が不完全な人類を統治する世界にならざるを得ないからです。
確かに、人類がこの地球に登場してきて以来、先程のヤスパースの言う「人類の教師」足りうる聖人が出てきてさえなお、我々は「利己的闘争」止めることはありません。
そこからすれば、どうしても人間の内部から変わっていくことは難しくとあり、時には絶望にさらされる時もあります。
ですが、だからと言って、究極的存在に近い人間以外の存在、またはそれに相当すると思われる存在が人類を直接統治するというような発想は、教育をする側からすれば許容はできません。
教育の根本は、教育を受ける被教育者達の内発的成長を促し、彼らが個人としての幸福の追求だけではなく、彼らを取り巻く周囲の環境それ自体の幸福までも追求できる「人間」たりうるよう、支えていくことだからです。
この観点に沿った場合には、被教育者達は各人の中に最大限明確な「意思」を持つことを想定します。これは、被教育者が障がいを持つかどうかで区別されるものでもまたありません。
我々は自分以外の他者に意志を安易に委ねる世界を構築するのではなく、自分達の利己性を乗り越えた結果生じる「意思」を持った人々が集まる世界を構築する必要があります。
この辺りは、最早どれだけ漫画やゲームの世界で語られていることでしょうか笑
私が読んだまたはプレイしたことのある漫画やゲームの定番ネタと言っても良いくらいです笑
話が長くなりましたが、こうした目線を持って今回のコロナウイルス騒動を見れば、その「利己性」から生じる醜悪さがどれだけのものかわかるはずです。
この利己性をそのままにして被教育者達を育ててしまっていることからは、元号が「令和」になり、21世紀も四半世紀を迎えることになる現在では1つでも2つでも減らしていきたいものです。
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